山木屋の共同体をまもるためにうごく渡辺とくいさん


山木屋茶屋主催 渡辺とくいさん(78歳)山木屋字広久保山(ひろくぼやま)在住

すぐに戻れるだろう。そう思っていた

 今回取材させていただいた渡辺とくいさんは、これまで様々な山木屋の取り組みを懸命に担ってきた人だ。2011年3月11日の震災発生当時、とくいさんは民選委員の山木屋支部長であった。そのため震災の緊急時には、山木屋に暮らす人たちの意見を代表し、必要な物資などを町行政に伝える役目を担っていた。地震の影響で水道が止まったため、水やカップ麺を子どもや高齢者がいる世帯を中心に他の民選委員たちと配給し、安否確認を行った。

 当時からまちのことに活発に取り組んでいたとくいさんの背景には、旦那さんの義(よし)明(あき)さん(84)の存在がある。とくいさんは義明さんとの2人暮らしであったが、「自由にやらせてくれた」と、とくいさんは自慢げに義明さんのことを話す。義明さんも地域のために動くとくいさんのことを、「細かく動いてくれてうれしい」と誇らしげだ。

 同年5月22日の避難開始後、山木屋地区の主に高齢の人たちは、福島市の旅館に一時的に避難した。その時もとくいさんは、山木屋の人たちがばらばらにならないよう、でかたまって避難できるよう動いた。現場で困っている人たちから声を拾い上げる、重要な役目をとくいさんは担っていたのだ。

 それから約一か月後の同年6月26日から川俣町内の仮設住宅への入居が開始され、とくいさんも入った。仮設住宅に入った当時は、「まさか(来年の)お正月ぐらいには帰れるだろう」と、とくいさんは思っていた。それから、約5年間、とくいさんご夫婦は仮設住宅で生活を送ることになる。

山木屋茶屋で、気づけば一つの輪に

 2017年3月31日、山木屋地区が避難解除され、とくいさんご夫婦は山木屋に帰還した。避難中、義明さんが病で倒れたこともあり、息子さんのいる福島市の家の近辺で暮らそうとも考えていた。しかし、義明さんの「帰りたい」という一言で、帰還することを決意した。

 とくいさんは帰還して早々に、「山木屋茶屋」という会を立ち上げた。山木屋茶屋とは、山木屋で事故前まで暮らしていた人や、帰還している人たちがとくいさんの自宅に集まり、食事を一緒に楽しむという会である。

 元々この山木屋茶屋は、とくいさんが仮設住宅にいた頃に、みんなで一緒になって話し合う場をつくろうという目的でつくった会であった。仮設住宅の時は女性しか集まらなかったが、とくいさんの家でするとなると、男女問わず、多い時で一回に20人以上が集まる。

 どういった会話がそこで行われるのか尋ねると、「(山木屋の)講の話や、糧飯の話になる」と、とくいさんは答える。「講」とは会合のようなもので、起源は地域の信仰などである。みんながご飯を持ち寄って集まる、地域の懇親会のような機能も持ち合わせているものもある。「糧飯」とは、まだ米が貴重だった頃、米を節約できるように山菜や芋、栗などを混ぜて炊いたものである。講も糧飯も、山木屋の中でも場所によって違いがあり、うちはこうだった、こっちはああだった、と話が盛り上がるというのだ。

 山木屋で暮らしていた人たちは、生活の世界が山木屋に根付いているため、自然と会話も山木屋についてのことになる。今まで、同じ山木屋にいても接点のなかった人同士も、山木屋茶屋に参加するとだんだんと一つの輪をつくっていった。そのような光景を前にとくいさんは、「後ろの方にいて私はみてるだけ」だそうだ。

山木屋から過疎の問題を考える

 3.11の事故前からあった山木屋共同体の崩壊をなんとか食い止めるため、とくいさんは持ち前の行動力を生かし、山木屋茶屋以外にも山木屋に関わる人たちが集まる場づくりに協力している。だが一方で、山木屋が抱える課題に直面している。

 とくいさんの生活を軸に山木屋の課題を挙げると、移動、商業施設、病院施設の3つにまとめることができる。とくいさんは、「デマンドタクシーもあるが、(利便性において)限界。きちんとした医療施設も周囲になく、お父さんの通院も難しい」と訴える。これらは現在、山木屋で暮らす多くの人が抱える課題だ。近年、過疎化の問題が以前にもまして他地域でも深刻化している。

 事故の影響を受けた山木屋は、緩やかに来る予定であった人口減少を、数十年早く迎えた。だからこそ、山木屋の抱える課題を正面から考える必要があるだろう。なぜなら、これから山木屋のような事例が、日本の各地で発生してくるからである。

 とくいさんご夫婦は、「病院や商業施設がまとまってある状態が望ましい」と話す。これは、「コンパクトシティ」の発想だ。いくつかの過疎地の中心に、医療、商業の施設をまとまったかたちでつくる。そして、そこまでの交通インフラをそろえる。自動運転の技術なども発達すれば、人口の規模に拠らないまちづくりの可能性がみえてくるだろう。

 また、これまで山木屋で生活してきた人たちの生活の知恵を次の世代につないでいくことも重要だ。とくいさんが、「大人数で来てもご飯ぐらいつくってあげられるから、いつでもおいで」と、筆者に言ってくれた。とくいさんのような人のところに人が集まって、そこから次の何かが起こっていく予感がした。

こぶしの花を待つ

 花をみるのが好きなとくいさんの趣味は絵葉書づくりだ。花や自分で育てた野菜などを絵で表現する。自然な線で描かれた絵をみて、どこかで習ったのか質問すると、「私、教わることってできないの。だから自己流」と微笑みながらとくいさんは返す。絵の筆遣いは柔らかく丁寧で、対象への愛情がこちらにも伝わってくる。そしてやはり、花の絵が多い。

 山木屋の冬は長く寒い。標高約550mになる山間高冷地で、氷点下20度を下回るときさえある。そんな土地で暮らす山木屋の人たちは、春を心待ちにしている。だからこそ山木屋で暮らしていれば、花への想いは特別であろう。

 とくいさんは、自宅の向かいにあるこぶしの花が咲く場所がお気に入りだ。毎年、春の訪れをこぶしの花で感じるという。人と土地との関係が薄れてきているなかで、街では四季というものを感じづらくなっている。とくいさんの生活と山木屋という土地は、二分できないものになっているのを感じる。

 義明さんも、最初は少し無理をして病を抱えながら山木屋に戻ってきたわけだが、今では病院にいた頃よりずっと元気だそう。筆者がとくいさん宅を訪れた時にも、義明さんは畑の野良仕事をしていた。二人の生活の中に、暮らす土地との向き合い方の一つのヒントがあると感じる。
(ライター 佐々木大記)